高校生 年間留学プログラム

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例年約40カ国 豊富な派遣国

タイの英語環境

タイは留学中にタイ語の学習が必須ですが、合格後に本人の英語に応じたイングリッシュスクールへの配属を希望できる唯一の派遣国です。

奨学金

返済不要 AFS生のための奨学金

AFSが窓口の奨学金はすべて給付型(返済不要)の奨学金です。プログラム参加費全額支給の奨学金が最大73名あり、すべての奨学金を含めるとAFS交換留学の年間生の内1/3、100名以上の支給枠を用意しています。


AFS留学はグローバル市民を育成します

多彩な留学体験

多様な国に共に留学する日本の仲間と学び、多様な国からその国に来た多国籍の仲間と交流する世界規模のAFSネットワーク

アメリカの”弟たち”

小学校から高校までずっと一貫校に通っていた僕は“知らない人”が学校にほぼいないぐらい、誰とでも仲良くできてコミュニケーション能力が高い方だと思っていました。

でも留学してみたら、自分がそのホストスクールの“知らない人”になって、初めて

「自分は井の中の蛙だったんだ!」と知りました。


僕は幼い頃からディズニー映画やハイスクールミュージカルが好きで、アメリカの生活は日本よりずっと華やかなんだろうと想像していたのですが、いざ留学していみると、配属先のアイオワ州のアーバンデールの地味さにショックを受けました。

学校から車で20分程のところにショッピングモールが1件あるだけで、実家の周りの方がよっぽど交通機関は整備されているし、遊び場も豊富でした。

でも、僕のホストファミリーの裏庭には大きな池があって、冬は家族でスケートリンクを作り、一緒に滑ったり、雪の積もる庭の向こうの丘でそり滑りをして遊びました。


ホームステイ先の3才と5才のホストブラザー、ジェイスとトレーは到着早々、僕を一日中遊びに付き合わし、寝る時間になっても遊び足らず、ぐずってしまうぐらい、二人は僕にすぐ懐いてくれました。


僕が外国人で、英語がまだそこまで話せないことを二人は全然気にせずに接してくれたことを、今はとても感謝しています。


家の地下には二人の遊び場があって、いつも一緒に遊んでいたのですが、

ある日ホッケーのスティックを振り回して遊び暴れていたジェイスが壁に大きな穴をあけてしまいました。

これは親にひどく怒られる。

そう思ったジェイスは僕のところへ近寄ってきて

「どうしよう」と涙目で言いました。

僕らがホストペアレンツのところへ一緒に謝りに行った時、僕は二人の本当のお兄ちゃんになった気がしました。


最後の日、他のAFSの留学生のいるお別れの場で、

ジェイスとトレーは大泣きして、別れを悲しんでくれました。でもあまりに泣き叫ぶものだから、

「おいおい、恥ずかしいからやめてくれよ」と、

あの日を思い出すと今も少し照れ臭いです。

コスタリカで見つけた私の居場所

「百聞は一見に如かず!触れたことのない文化の中で生活したい」当時の私は第一希望のコスタリカに合格しました。コスタリカは日本とは種類の異なる豊かな自然や美味しい料理、フルーツ、気さくな友達、そして温かいホストファミリーに出会い、充実した留学生活を送りました。コスタリカを選んで良かったと心から思っていますが、振り返れば、辛いこともありました。やはり留学で立ちはだかる最初の壁は「言語」です。雑談に加われなかったり、先生と生徒たちが盛り上がっている理由が分からなかったり、周りの状況が理解できないことが、こんなにも不安とストレスになると留学で知りました。
それでもしばらくすると私にも仲の良い友達ができました。チャロンとモニカです。私はいつも二人と一緒にランチを食べていましたが、昼休みの50分間、彼女たちの会話に加わることができないうちに鐘が鳴ることはよくありました。彼女たちが冷たいわけではありません、放課後は私を家に招いて宿題を手伝ってくれたり、休日に一緒に買い物に出かけたり、優しくて楽しい思い出もたくさんくれました。
ある日、私は気分転換に別の友達とランチをとりました。いつもよりたくさん話せて「楽しかったな~」と思いつつ自分の教室に戻るとチャロンが寂しげな様子で話しかけてきました。「どこ行ってたの?寂しかったよ。」と。同じテーブルに、ただいるだけの自分は彼女たちのお荷物だと思ってましたが、それは杞憂で、「言葉が分からない私」をまるごと認めてくれていました。それからは、居場所を作ってくれる友達に恩返しのつもりで、スペイン語でたくさん話しかけるようになりました。
留学で言葉の苦労はつきものですが、助けてくれる人は必ず現れます。どの国にも、その国だけの魅力があるからこそ、非英語圏や馴染みのない国だからといって留学の候補から外すのではなく、少しの勇気を持って、興味のある国へ飛び込んでみてください!

大きな出会いの小さなはじまり

私の留学先はブラジルの最南端の州、リオグランデ・ド・スル州の人口2万人程の小さな町でした。季節の花々に溢れた公園やパンパス草原、肉料理が有名です。私がブラジルに留学したいと思ったきっかけは、AFSの説明会で聞いたり、プログラム案内で読んだりした南米の体験談が心に刺さったからです。北米や欧州より南米は馴染みやすくて楽しい国柄なのではないかと感じました。ホストスクールに通う最初の1週間は、日本語を学んでいる大学生が授業中、私の隣で常にサポートをしてくれました。けれど私はクラスメイトには警戒されているように感じていました。なぜなら、クラスメイトは全然話しかけてくれなかったからです。それは私が抱いていた南米の印象とは違いました。だから大学生の付き添いが終わる瞬間は留学中でも一番不安でした。その瞬間は昼休みでした、私は大学生とお別れをして1人で教室に入りました。でも、その直後、クラスメイトは一斉に私に話しかけに来ました。みんな気を使って私に話しかけるのを我慢していたようで、私はみんなとすぐ打ち解けることができました。みんなは仲良しで、お互いに助け合っていて、私の知っている日本の学校より独りで過ごす生徒が少ない印象でした。私は特に気にしていませんでしたが、私の留学終盤にクラスのみんなが開いてくれたお別れ会で担任の先生に言われました。「美貴がこのクラスに来てくれたからみんなが一つになれた。それまではいくつかのグループに別れていたけど、初めての留学生が来ると聞いて、みんなで教室を掃除したり、イベントを企画したり、このお別れ会だって全員で準備できたの。ありがとね。」と。ブラジルと日本は違う。ブラジルには日本より格差もある。国内の人種や文化も多種多様だけれど、馬鹿にしたり、見下したりすることをせず、私を受入れ、私もブラジルを受入れられる環境で高校生活が送れたことを私は今でも誇りに思っています。

私のペース、タイ

私の両親もAFSで留学し、そこで二人は出会ったんです。母はニュージーランドに留学して、母のホストマザーを私はNZのおばあちゃんと呼んでいます。

幼い頃NZのおばあちゃんが私の家に遊びに来て、「かわいそうな子ね」と片言で私に言いました。本当は「かわいい子ね」と言いたかったようで、おばあちゃんが一生懸命覚えてきたつもりだった日本語は全然違う意味だったことを、今でも笑い話として覚えています。

NZのおばあちゃんの家には大学生になった今もたまに遊びに行きます。母のホストマザーが私のグランドマザーになるような、そんなAFSの留学体験に、私は幼少期から憧れていました。

私は元々東南アジア諸国に興味があってタイを選びましたが、タイの一年間は私に「私の時間を大切にする」ということを教えてくれました。

タイの人たちってすぐ遅刻するんです(笑)でも、遅刻する側も、される側も全然何も言わないし、怒らないんです。

ある時私はタイの友達になぜ遅刻されても怒らないのか聞いてみると、「急ぎ過ぎても危ないし、私のペースと相手のペースは違うからかね~」と。遅刻するという“悪いこと”が思いやりの関係性に見えた時、私はこんなにも日本の文化と違うんだって、驚きました。日本にいた時の私は相手のペースに合わせている私なんだと気づいたんです。

「本当の私のペースってなんだろう?」

って、それからの私はタイの留学中の私のペースを真剣に考えて過ごしました。空き時間に英語の勉強をしてタイで受けたTOEICは今でも私の過去最高得点だし、マッサージ師の資格もタイで取りました。

私はタイのバンコクに滞在していましたが、1週間ほどタイ東部のサラブリー県に滞在する機会がありました。ちょうどその時期は年に1回あるかないかのとても寒い時期で、エアコンもなければ、ダウンジャケットや毛布もなく、私は風邪で寝込んでしまいました。熱を出しながら

「寒さをしのげる当たり前なことが実は恵まれている幸せなのかな」って思いました。

今私は大学で本当の平和とか共存ってなんなのかを研究しています。そういう体験が今の私の居心地のよいペースづくりや研究テーマにも影響しているんだと思います。

インドネシアで学んだ「みんな自分次第だ」

AFSでは約40カ国に留学できます、私は応募の時期が遅かったので、まだ応募が間に合うインドネシアに決めました。

その新鮮な毎日たるや。

 

私は6人家族の家に1年間ホームステイしました。一番仲良くなったのはホストシスターのハニです。

ハニは私と同学年で何も知らない私にたくさんのことを教えてくれました。

私はハニが大好きです。

でもある日ハニは私と口をきいてくれなくなりました。

――――辛かった。

 

私は毎日インドネシア語で一緒の家に住んでいる

ハニに手紙を書きました。

ずっと、毎日書きました。

するとある日、ハニが「ごめんね」

って歩み寄ってくれました。 

辛かった日々を乗り越えることができたから私はハニと「本当の家族」になれた気がします。

 

私の人生はなんだって自分次第なのだと気付いたのは、 留学から帰ってきてから。

留学すると決めたのも自分、家族とどう過ごすか決めたのも自分、どう関わり、どう接するかを決めたのも自分、

そしてこれからどう生きるか、未来を決めるのも自分です。

 

あなたが留学しないのは、きっと

あなたが留学しないと自分が決めたから。

私の留学生活は日本の私の友達が経験したような青春じゃなかったかも、

でも自分で掴む人生を選択して欲しい。

未知なる異文化を経験して

どんな生活か全く想像できないところへ、

よく知らない未知の国、インドに留学してみたい


そう思って、高校のインド出身の英語の先生に話を聞いたり、AFSでインド留学生のホストファミリーをしたり、知れば知るほどインドへの興味が湧いてきて自分はAFSの試験ではインド一本で出願しました。


自分の滞在形態は変わっていて、高校の寮長をしている家族の元に配属されました。普段の生活は寮生とともに過ごしてたいので、ホストファミリーと食卓を囲むより寮生と共に食事をとることの方がとても多かったです。だから本当に想像しなかった留学生活がスタートしました。


寮長をしているホストファザーとは家族観の相違からすれ違うことも多く、自分はインドの教育を過保護に感じていました。成人していても未婚者はまだ子供で「親の言うことを聞くべき」といったような考え方は日本の放任主義的な家庭で育った自分にはとてもストレスでした。自分は寮で生活していたこともあり、友達は比較的できやすかったです。それに希望制の修学旅行のようなものにも積極的に参加して仲良しも増えました。


でも、自分にとってインド人の多くはステレオタイプで、様々な面で自分とは根本的な価値観が違い、どうしても受け入れられない部分が多く親友と呼べるほどの友達はすぐにはできませんでした。そんなある日、クラスの女子二人が「実はずっと仲良くなりたかったけど、宙斗の周りに人が多くて話しかけれなかった」


と言ってくれて、そこからその二人とはよく話すようになりました。


彼女たちは「私らはインド人らしくないよ」というほどインド独特なステレオタイプの考え方がなく、ホストファミリーとのすれ違いや、他の生徒との関わり方で悩んでいること、たくさん打ち明けて話すことが出来て、いつの間にか二人とは親友になっていました。

でも、新型コロナウイルス感染症が世界的に流行した2020年3月。予定よりも1カ月早いお別れで二人からはメッセージ付きのアルバムを手渡されました。

帰りの飛行機でそれを読んで大号泣したのを今でも覚えています。


質と量でインド留学を振り返ってみると、量的には辛いことの方が多かったです。食事が合わない、衛生状況にすぐ適応できない、心まで許せる友達ができない、それでも「自分で考える力」は身に付いたと思います。

「なぜこのインド文化に居心地の悪さを感じるのか?」


自分なりにインドの習慣や状況を生み出している原因を日本とインド両方の文化が分かってきたから照らし合わせて考えることができる。

「訳が分からない」から段々と明瞭になる感じ。

それを自分の中で受け入れてあげる。住み慣れた日本、居心地のいい日本だけで生活していたら、きっとこんな経験は出来なかっただろう。


熱気に包まれたインドの祭り、ガンジス川の夕日を眺めてぼんやり日本、自分自身、そしてインドについて考えた時間。

自分で自分の機嫌の取り方が上手になる感じ。

上手くいかない異世界で、上手くいかないことを受け入れて生活する。量的には辛いことは多かったけど、質的には最高の経験をインドで見つけた気がします。

異文化の辛さと学び

私は中学時代に英検1級に合格するぐらい英語が得意で、母も高校留学経験者だったので、自分もいつか高校留学をするのだと思っていました。中国を選んだ理由は、父の仕事の都合でよく中国に行くことがあって馴染みがあったのと同時に、親しみのある先進国や、話せる英語で留学することが、自分にとって学びに繋がると思えなかったからです。


楽しい生活をしたいなら旅行で十分だと思いました。


私の配属された広東省の高校の多くは敷地内に寮があり、遠方からでも通えるような環境を整えています。そのため平日は寮で暮らして、土日は親の元に帰るスタイルが日本と比べて圧倒的に普通なことなのです。

私が配属されたホストファミリーの息子、ホストブラザーも同じように平日は寮で生活していました。


「あなたのホストファミリーの家はホストスクールから遠いから寮生活でもいい?」と聞かれました。寮生活でも構わないけど、衛生的にその寮で自分が暮らすことは絶対無理だと思いました。

でもそれをどうやって伝えたらいいのだろうか?

英語が話せるホストスクールの先生は少なく、自分の思っていることを伝えることすら難しい環境で、私はなんとか校長先生と直接話をすることができました。話と言っても寮を指差して「あれ、無理、帰る」というのが精いっぱい。言葉が通じなくても校長先生は私の言いたいことを理解しようとしてくれて、その後は、生徒用の寮ではなく、教員用の住宅で私のホストブラザーと寝泊まりすることになりました。


そんな事情をホストマザーは心配して毎朝、朝ごはんを持って教員用住宅に来てくれました。


日本語も英語も、日本の常識も“伝わらない”状況で、

授業料や宿泊費などを取らずに善意で自分を受け入れてくれている相手と交渉することは本当に大変なことでした。

「この環境はおかしい」「その考えは間違っている」と相手を責めるより、まずは現状を受入れて

「本当に自分がしたいこと」を精錬して考える。


誰かを悪者にしたり、叩いたりすることが、

自分が本当にやりたいことだとは思わなかったので。


「なんでもやってもらえるわけじゃない」

与えてもらったら、自分が返してあげられることは何かを考える。経営者である父がよく言う、

ギブ&テイクってこういうことか、と思いました。


私のホストスクールには日本語専攻のクラスがあったので、私は日本語科の生徒とは日本語で会話をするように心がけ、日本語の音読の授業では3クラスを掛け持ちして音読のボランティアをし、日本語の歌の大会に出場し、ダンス部に潜り込んでダンス大会のレギュラーメンバーとして広東省の大会で優勝もしました。


私が日本語を話せること、幼少期から受けていた舞台稽古で、歌えて踊れること。留学生として自分がしてあげられることは惜しまずになんでもしたから、

「本当に自分がしたいこと」を「それはわがままだ」と言われず、受入れてもらえたんだと思います。

未知なるパナマ留学

私が高校留学を知ったきっかけは、幼馴染が高校1年生の時にAFSでイタリアに留学する。と言った時。その時私はAFSが約40ヶ国の留学枠を持っていることを知り、そこで目に留まったのがパナマでした。もしも、普通の高校生活を送ったら、普通に進学して、普通に働いて。私の人生に”パナマ”は無関係なんだろうな。そう思った時。私の人生は、私のこの瞬間の選択で決まる。ということに気づきました。


―――パナマに行こう。


パナマで過ごして2ヶ月ほどが経過したころ。私は新しいホストファミリーを探さないといけなくなりました。AFSの現地のボランティアさんも協力してくれたけど、私はクラスメイトのパラオに、「ホストファミリーになって欲しい」そうスペイン語でお願いしました。AFSのホストファミリーは無償で留学生を受け入れます。宿泊費やガス光熱費だけでなく、留学生の三食の食事もホストファミリーが負担します。パラオのお母さんは私に、

「目の前で困っているあなたを助けないわけにはいかないわ。でもね。いつかあなたも、困っている人を助けてあげてね。」


それだけを言って、私を家族として迎え入れてくれました。パラオの家にお世話になる頃には、全然喋れなかったスペイン語も流暢になっていて、私はパラオに数学や化学の勉強を教えてあげたり、パラオの9才の妹の面倒を積極的にみたりしました。


少しでも恩返しがしたい。そう思いました。いつも家族の一員として接してくれるパラオとパラオの家族が大好きです。パラオの勧めで私は現地のマーチングバンドに入ることにしました。パラオのお下がりの打楽器のリラを借りて。クラスメイト以外の友達もできて、本当に充実した日々でした。


たった10ヶ月間の留学の毎日は辛い日々だったり、

楽しい日々だったり、忘れられない日々でもあったり。


もし今、あなたが留学を考えているなら、少しでもあなたの背中を押せるなら。私は留学しても、留学しなくても後悔しない人生を送って欲しいと思います。


きっと私がパナマに留学していなかったら、今頃人生で一番の後悔をしていたと思うから。

美しいフランス

フランスとスイスをまたぐ西ヨーロッパ最高峰のモンブラン、その麓の町オートサヴォワに私は留学しました。時の流れ、人の温もり自然とのふれあい、食文化ここはずいぶと日本とは違う。


夏は放課後に湖へ泳ぎに行ったり、冬は山でもみの木を探したり、3人のホストシスターと星空の下で眠ったり。

――――まるで絵本の中の世界!

 

私の一番の思い出は、ホストファミリーと囲む夕食でした。

毎日たっぷりと時間をかけ、おしゃべりをしました。


「Question du jour(今日の問題)」

パパのクイズは毎晩の恒例。


おかげで私はいつの間にかフランス語が上達して

「Écoutez-moi ! (私の話を聞いて!)」

とホストシスターたちと競うようにおしゃべりを楽しみました。

 

私は子供の頃からずっと内気だったけど、高校生で日本を飛び出せました。留学する前から私の家はAFSでホストファミリーを経験していて、留学生のためにホストファミリーやホストスクールが親身になってくれることを私は知っていました。


私が留学してみたい、と両親に相談したとき二人は臆病な私の背中を押してくれました。

 

今はフランスに、遠くから私を応援してくれるもう一つの故郷があることは、私の原動力です。フランスの家族や親友とのつながりがこの先何年も続くと思うと幸せな気持ちでいっぱいになります。

 

少しの勇気は必要ですが、AFS留学は必ず収穫があります。もし私があなたの背中を押せるなら、

ぜひあなたにも世界に飛び出して欲しい!!

マレーシアで見つけた本当の幸せ

今思えば幼少期は目に見えるもの、感じることの全てが新しい発見の連続で、キラキラ輝いていました。

でも中学生になる頃には毎日が勉強だけの、新鮮味がない日々になり、私の感性は萎縮していたように思います。

そんな私は高校生になって留学を決意します。

実はマレーシアは第4志望で、一番行きたい国ではありませんでした。

でもこれは「私の運命かもしれない」

そう自分に言い聞かせて2016年の冬にマレーシアへ飛び立ちました。

『人生を豊かにするのは学歴やお金』

留学するまで私はなんとなくそんな風に考えていま

した。

「今を大切に生きることが人生を豊かにする」

ホストファミリーは私に言いました。

マレーシアの暮らしで私は、この瞬間瞬間の幸せを感じられるようになり、いつの間にか幼い頃の鮮やかな世界に戻ったようでした。

―――これが運命だったのかな。

元に戻った鮮やかな世界が、何にでも興味を持ってチャレンジできる私に変えてくれました。

それはマレーシアのホストファミリーや友達が、私とは全然違う価値観、

楽観的で”なんでもどうにかなる精神”を持っていたからかもしれません。

ぜひ皆さんも自分がまだ出会ったことのない世界へ踏み出してみて欲しいです。

愛に溢れたメキシコ

常夏の町、メキシコのメリダに私は一年間留学しました。私の出会ったメキシコの人々はいつも陽気で、私とは違い恐れず他人を愛せる強い人々でした。

私は留学するまでほとんどスペイン語が話せませんでした。AFSは世界中にネットワークがあり、そのメリダの町にも数多くの国から留学生が来ていました。彼らは英語もスペイン語も上手で、自信に顔を輝かせ、なぜか私は劣等感を抱いていました。

「恵理子はスペイン語下手だからテストで良い点なんて取れないでしょ?」

なんでそんなこと言われないといけないんだろう。

なら期末テストで学年一位を取ろう!

私は学友のリゼスとリカルドにお願いして勉強を見てもらいました。  

二人は毎日夜9時まで付き合ってくれて、3科目の総合成績で私は学年一位を取りました。気づけば私のスペイン語はもう流暢になっていました。

 

私が暮らしたホストファミリーは、父、母と二人の姉妹のいる4人家族でした。彼らは私に本当に大切なことを教えてくれました。それはメキシコ人の強い愛でした。人生における本当の幸せや喜び、大事にすべきこと。

「大事なのはお金ではなく、たくさんの物を持つことでもなく、今あるものに目を向けて、今この瞬間を一生懸命に生きること」

ホストマザーのその言葉を私は一生忘れません。

今はもう留学前の弱い私はどこにもいません。私は何も恐れず彼らを家族として心から愛しています。

私を変えたアルゼンチン

あなたの強みは何ですか?

 

勉強が得意でいつも明るくて、ピアノも上手で、みんなの憧れ。私の姉はそんな姉です。

どうしていつも、私は姉と比べられるんだろう。

何をしても姉よりうまくいかない自分が嫌でしょうがなくて、私は高校2年の春に留学すると決めました。

今まで石橋を叩いても渡れないような臆病な私が、留学を決意してからはどんな橋だって駆け抜けてきたような気がします。

私は英語圏への留学を希望していましたが、AFSでは志望可能な国は全てに一度で応募できるので、私は第10希望ぐらいにアルゼンチンを書きました。


まさかアルゼンチンに決まるとは。


留学するか本気で悩みましたが、当時の担任の先生の一言、

「アルゼンチンに留学できるチャンスは二度とないよ」

それが私を決断させてくれました。


アルゼンチンのご飯は美味しいし、自然は豊かで、街並みもおしゃれなんですが、そんなこと本当はどうでもよくて、本当に素敵なのはアルゼンチンの人々です。私を迎え入れてくれたホストファミリーはもちろん、学校の友達や先生、みんなが温かく私を受け入れてくれました。日本ではずっと、私は私を変えられずにいたけれど、たった1年間の留学は私の価値観を変え、物事の捉え方を多様化し、心を強くさせてくれました。強くなった私は日本の家族や友人が本当はどれほど優しく、尊く、温かいかを知りました。

 

もしあなたがAFSで留学するとき、もしかしたら一番行きたい国に行けないかも。英語が通じ無さそうで、治安が悪そうで、衛生環境も大学受験も心配で、でもそんな不安があった方があなたの一歩はもっと大きな一歩になるから、

きっと想像もできないような世界がまっているから、

絶対挑戦して欲しいです!

私は、アルゼンチンに留学して本当に良かった。

心の底からそう感じてます。

主な進学先

2022年11月10日(締切)に実施した65期~67期(2018年~2020年に出発)を対象に行った進路についてのアンケート結果を引用有効回答数230名(内、進学先大学名が記入された有効回答は208名)

AFSの歩み

1914年AFSの名は、第一次、第二次世界大戦中に傷病兵の救護にあたったAmerican Field Serviceに由来します
1954年日本から初の留学生8名がアメリカに渡り、現在では1万6000名以上がAFS年間留学に参加しています
2004年文部科学省より「国際交流功労者文部科学省大臣表彰」を受けました
2011年公益に資する活動であると認められ、公益財団法人としての公益認定を受けました
2015年UNESCOのオフィシャルパートナー(consultative status)として認められました
2023文部科学省の推薦で「紺綬褒章」の公益団体認定を内閣府賞勲局より受けました

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参加方法:zoomを利用したオンライン実施です。パソコンまたはスマホなどからアクセスください
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