中国留学体験記進学先:中央大学 国際経営学部

異文化の辛さと学び

私は中学時代に英検1級に合格するぐらい英語が得意で、母も高校留学経験者だったので、自分もいつか高校留学をするのだと思っていました。中国を選んだ理由は、父の仕事の都合でよく中国に行くことがあって馴染みがあったのと同時に、親しみのある先進国や、話せる英語で留学することが、自分にとって学びに繋がると思えなかったからです。


楽しい生活をしたいなら旅行で十分だと思いました。


私の配属された広東省の高校の多くは敷地内に寮があり、遠方からでも通えるような環境を整えています。そのため平日は寮で暮らして、土日は親の元に帰るスタイルが日本と比べて圧倒的に普通なことなのです。

私が配属されたホストファミリーの息子、ホストブラザーも同じように平日は寮で生活していました。


「あなたのホストファミリーの家はホストスクールから遠いから寮生活でもいい?」と聞かれました。寮生活でも構わないけど、衛生的にその寮で自分が暮らすことは絶対無理だと思いました。

でもそれをどうやって伝えたらいいのだろうか?

英語が話せるホストスクールの先生は少なく、自分の思っていることを伝えることすら難しい環境で、私はなんとか校長先生と直接話をすることができました。話と言っても寮を指差して「あれ、無理、帰る」というのが精いっぱい。言葉が通じなくても校長先生は私の言いたいことを理解しようとしてくれて、その後は、生徒用の寮ではなく、教員用の住宅で私のホストブラザーと寝泊まりすることになりました。


そんな事情をホストマザーは心配して毎朝、朝ごはんを持って教員用住宅に来てくれました。


日本語も英語も、日本の常識も“伝わらない”状況で、

授業料や宿泊費などを取らずに善意で自分を受け入れてくれている相手と交渉することは本当に大変なことでした。

「この環境はおかしい」「その考えは間違っている」と相手を責めるより、まずは現状を受入れて

「本当に自分がしたいこと」を精錬して考える。


誰かを悪者にしたり、叩いたりすることが、

自分が本当にやりたいことだとは思わなかったので。


「なんでもやってもらえるわけじゃない」

与えてもらったら、自分が返してあげられることは何かを考える。経営者である父がよく言う、

ギブ&テイクってこういうことか、と思いました。


私のホストスクールには日本語専攻のクラスがあったので、私は日本語科の生徒とは日本語で会話をするように心がけ、日本語の音読の授業では3クラスを掛け持ちして音読のボランティアをし、日本語の歌の大会に出場し、ダンス部に潜り込んでダンス大会のレギュラーメンバーとして広東省の大会で優勝もしました。


私が日本語を話せること、幼少期から受けていた舞台稽古で、歌えて踊れること。留学生として自分がしてあげられることは惜しまずになんでもしたから、

「本当に自分がしたいこと」を「それはわがままだ」と言われず、受入れてもらえたんだと思います。