パナマ留学体験記進学先:東京大学 農学部

未知なるパナマ留学

私が高校留学を知ったきっかけは、幼馴染が高校1年生の時にAFSでイタリアに留学する。と言った時。その時私はAFSが約40ヶ国の留学枠を持っていることを知り、そこで目に留まったのがパナマでした。もしも、普通の高校生活を送ったら、普通に進学して、普通に働いて。私の人生に”パナマ”は無関係なんだろうな。そう思った時。私の人生は、私のこの瞬間の選択で決まる。ということに気づきました。


―――パナマに行こう。


パナマで過ごして2ヶ月ほどが経過したころ。私は新しいホストファミリーを探さないといけなくなりました。AFSの現地のボランティアさんも協力してくれたけど、私はクラスメイトのパラオに、「ホストファミリーになって欲しい」そうスペイン語でお願いしました。AFSのホストファミリーは無償で留学生を受け入れます。宿泊費やガス光熱費だけでなく、留学生の三食の食事もホストファミリーが負担します。パラオのお母さんは私に、

「目の前で困っているあなたを助けないわけにはいかないわ。でもね。いつかあなたも、困っている人を助けてあげてね。」


それだけを言って、私を家族として迎え入れてくれました。パラオの家にお世話になる頃には、全然喋れなかったスペイン語も流暢になっていて、私はパラオに数学や化学の勉強を教えてあげたり、パラオの9才の妹の面倒を積極的にみたりしました。


少しでも恩返しがしたい。そう思いました。いつも家族の一員として接してくれるパラオとパラオの家族が大好きです。パラオの勧めで私は現地のマーチングバンドに入ることにしました。パラオのお下がりの打楽器のリラを借りて。クラスメイト以外の友達もできて、本当に充実した日々でした。


たった10ヶ月間の留学の毎日は辛い日々だったり、

楽しい日々だったり、忘れられない日々でもあったり。


もし今、あなたが留学を考えているなら、少しでもあなたの背中を押せるなら。私は留学しても、留学しなくても後悔しない人生を送って欲しいと思います。


きっと私がパナマに留学していなかったら、今頃人生で一番の後悔をしていたと思うから。

パナマ留学体験記進学先:上智大学 神学部

世界には認めてくれる場所がある、パナマ

私は「キリスト教の国を見てみたい」そう思ってカトリック教徒の多いパナマに留学しました。


私が配属された街はパナマ運河の北の玄関口、コロンです。そこはあまり治安の良くない地域で、そのためか私は私立のカトリック系上流階級のホストスクールに配属されました。登校初日の朝、私は

「自分から積極的に話しかけて友達を作らないと」と意気込んでいましたが、クラスメイトたちの方が勢いよく私に話しかけてきて、すぐに友達がたくさん出来ました。クラスメイトは英語もスペイン語もとても流暢で親切で、宿題のやり方、月曜日は体育館で朝礼があること、なんでも教えてくれました。


パナマは日本の学校と違って男女間でも隔たりなく仲良くなれる文化で、私は後ろの席の男子生徒、サムエルと、いつの間にか仲良くなっていました。サムエルはお調子者でいつもふざけていましたが、私が将来の夢とか、大学受験の心配とか、大事な話をすると彼は決まって真剣に話を聞いてくれます。


「日本人のハグって、全然ハグじゃないんだよな」

パナマでは日常的に挨拶で使うハグですが、ある日サムエルに言われました。どうしてもハグに慣れてない私はぎこちなくなってしまいます。


留学してから半年、パナマにも慣れた明るく晴れた雨上がりの午後。私が友達とサッカーをして遊んでいた時、サムエルが転校する知らせを聞きました。


サムエルは父子家庭で、そのお父さんが亡くなりました。彼は彼の祖父母の住む隣町に引っ越すことになったのです。私は悲しくてパナマのお葬式はたくさん泣きました。お別れの日に私は彼に教えてもらったようなハグがきっと、できた気がします。


そんな私はホストスクールでたくさんの友達ができ、放課後はよく遊びに誘われました。でもホストマザーは仕事終わりに大変疲れていて、私を夕方、車で迎えに行くのを嫌がりました。だから私は遊びに行くのを我慢することが多かったです。マザーは週末になると私を教会やパナマの観光地、ボカス島に連れて行ってくれて、とても感謝はしていましたし、私のことを心配して家にいるように言っていることも分かっていました。でもある夜、私はホストマザーと大喧嘩をしました。号泣しながら

「どうして私がパナマに来る決意をしたのか、      

     どういう留学生活を私は送りたいのか」

私は覚えたばかりのスペイン語で必死に話しましたその時マザーは自分が病気を患っていることを初めて教えてくれました。言葉の奥でお互いのことを少し分かり合えた気がした夜でした。それからは私はマザーに負担をかけないように、信頼できるタクシードライバーを探したり、安全な帰宅方法を見つけたり二人で折り合いを模索しました。パナマに変えると今でもちょっぴり喧嘩します。


留学した体験は「日本だけが世界じゃない。もし日本で自分が否定されても、世界のどこかに私を認めてくれる場所がある」そんな風に私を前向きに変えてくれました。